ルサンチマン

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戦後日本社会のモラル・ヘゲモニーは「リベラル」と称する一群の勢力によって掌握されて来た。もちろん戦後民主主義者の中に真のリベラルと看做せる者は殆ど存在せず、その正体は時計の針が止まったままの「革新」に過ぎないが、昨今、彼らの劣化が目を覆わんばかりに激しい。否、連中の人格崩壊・支離滅裂は今に始まったことではなく、単にそれが白日の下に晒され、遂に世間一般の目に触れてしまったと言う方が正確であろうか。

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進歩的文化人』というタイトルの本がある。昭和32年4月初版のこの“余りに日本的な”書物は、麗しき我が列島に生息する醜い知識人を知る上で最良の資料であろう。この書籍は副題に「学者先生戦前戦後言質集」とあるように、総勢32匹にも及ぶ進歩的文化人の、敗戦を境にした変節を容赦なく暴いている。その中から変節界の大物であり「MR.変節漢」の異名を持つ清水幾太郎センセイの有り難い言葉を御紹介しよう。

・敗戦前

戦争はしばしば基礎的社会の改新を実現する事がある。戦争を通じて基礎的社会が新しいものとなり、高いものとなる事があるのである。そして新しい基礎的社会は新しい文化の基盤である。近代文化は近世初期に於ける多くの戦争と動乱とを通じて、新たなる基礎的社会が成立したことにその根底を有する。

大東亜戦争という名称の底に潜んだ雄大な意図と構想とは、生活観の是正を可能にするであろうし、またこれを前提として、この大規模な戦争の遂行も可能になるであろう。

ヒトラー総統の下に、全ドイツの青年が自己の力と生命とを、文字通り民族の力と生命とに化している背後に、ドイツの於ける青年研究の伝統が横たわつてゐることを知るべきである。(中略)世界の歴史を通じて幾多の英雄が民族を滅亡の危機から救うことを得たのも、その一半は彼等がよく青年の力を動かすことに成功したからであり、従つてまた英雄に相応しい鋭い眼を以て青年の本質を見抜いていたからであろう。

・敗戦後

ロシヤのどの土地に参りましても……平和は何という有難いものだ、今まで、平和は毀れ易いガラスの器のようなものであつたが、是非とも、みんなの力で、この平和を大事にして行こう。こういう言葉が、席上のすべての人々の口から、深い感情をこめて語られるのであります。……席上の言葉がその場限りの言葉ではなく、実に、二億のロシヤ国民の真実の気持を代表するものであることを知るに至りました。

余談ではあるが、この男、後に核武装論者へと“再転向(?)”したことは余りにも有名である。さて、大物だけを紹介すると戦後民主主義の信条に反するので、彼らに敬意を払い小物も同様に紹介しよう。この生き物図鑑には「蜷川新」という名の新種のメガネ猿が登場する(本書には丁寧にも32匹の経歴と写真が付されているので、興味のある方は図書館等でご確認を)。「長らく駒沢大学教授の職にあり、国際法を専攻、憲法学者としても著名で日本法学会の一長老」であったそうだ。この珍種から全貌社に送り付けられた抗議文が、彼らの生態をよく現わしている。

武家幕府時代、天皇権力時代、民主日本国時代と同じ論法で唱えている人間がいたならば、それは国民の道を知らない人間です。寒中と夏とは衣服も同じでは生きられないのです。

帝国主義の時代には、国民として帝国主義に生き、民主々義の時代には主権在民を人民の理念として生きるのが正しい人間であります。

彼らは恐らく、ヒトラーが現れれば右を向いて敬礼し、毛沢東が現れれば左を向いて赤旗を掲げるであろう。実は、この連中の正体は節操無き変節漢ではなく、権力に迎合し時流に乗って栄える、ブレない人々なのである。つまり歩く方向は変わっても、歩き方は一向に変わらないのだ。

さて、オポチュニストであることに加えて、彼らには戦前・戦中・戦後と一貫した姿勢がある。それは「反米」である。

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かつて「反日」は学会や言論界への手軽なパスポートであった。その有効期限はそろそろ終焉を迎えつつあるが、右翼的なものであれ左翼的なものであれ、未だに「反米」であることはインテリの身分証明書として十分な役割を果たしている。

強いものに歯向かう姿は一見、勇ましく見えるものだが、実はほとんどの場合、自分の様な小物には攻撃を仕掛けないだろうという安心感に胡坐を掻いた、弱者による正義を偽装したポーズに過ぎない。そして、この醜悪な思想と行動を産み出す感情こそが「ルサンチマン」なのである。ニーチェによって鋳造されたこの言葉が表すものは「外のもの、他のもの、自己でないものに対して否と言うとき、外へ向かうべき真の反応、つまり行為による反応が自己自身の無力さから拒まれているために、価値を定める眼ざしを逆転させ、想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけようとする根本的に反動的な心理的態度である。」(『ニーチェを知る事典』)

日本のインテリは“無敵の神軍”の敗北によって行為による反応が自己自身の無力さから拒まれた。そこで「国体護持」から「護憲」へと価値を定める眼ざしを逆転させ、想像上の復讐を成し遂げたのである。そのさもしい精神は文部省が発行した社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』に如実に現れている。

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません

ルサンチマン」は恐らく文明人共通の醜悪な感情である。しかし、護憲派の世界的にユニークな点は、その「想像上の復讐」の為に発明された観念を当の征服民から下賜され、それを後生大事に奉っているところにある。人類という生物が文明化した結果、図らずも産み出されてしまったこの低劣な情念は、終に我が民族に於いて最も奇怪な生物、倭製リベラル知識人という名の末人を産み出したのである。