不遇なる一凡才の手記

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『英雄はいかに作られてきたか』

f:id:mukashi_otoko:20170320154805j:plain 『英雄はいかに作られてきたか』アラン・コルバン著/藤原書店

 

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皇帝ナポレオンの生涯ではなく、一介の木靴職人ピナゴの小世界を描き、フランス大革命のカオスではなく、片田舎で起こった群衆の暴動に迫る。アナール学派の一面 ― 偉人や事件を敵視する ―  を徹底して貫き、歴史学に新たな地平を開いたアラン・コルバン。その著書のタイトルに「英雄」の二文字があることを怪訝に思う人もいるに違いないが、もちろん我らが感性の歴史家が、細分化した歴史に飽き足らず、遂に人物と事件の伝統的歴史著述に回帰した訳ではない。本書で彼が描くものは英雄の歴史ではなく英雄観の歴史である。

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ナショナリズムの時代に花開いた近代歴史学には、その原初からネイションの創出に奉仕する“神学的”使命が授けられていた。特に、祖国防衛のために命を投げ出す軍事的英雄がロール・モデルとして崇め奉られたのである。例えば、「怖れを知らぬ、非の打ちどころのない騎士」バヤールがその典型であろう。第二次世界大戦前のあらゆる調査や教科書の中に必ず載っていた彼は、その騎士としての振る舞い、信仰心、そしてとりわけ王に対する絶対的な忠実さによって知られた。しかしながら、バヤールは生身の存在に欠けていた。彼は純粋で、絶対的で、伝説的な雄々しさのかすかな思いでしか残さなかった。これらすべてのことは今となっては過去のものとなり、もはや現代人の賛美の的にはなれなくなったのである。

英雄の座から引きずり降ろされたのはバヤールだけではない。第一次世界大戦時の元帥・フォッシュもまた同じ運命を辿ることになる。近代兵器と記録技術の発展によって戦争から人間的なロマンが失われ、勇ましい英雄を称える心が失われてしまった結果であろうか、戦争に勝利する文化の価値低下が、軍事的勝利をもたらした偉大な将軍たちの記憶が薄れていく方向に作用した。今では失望、後遺症、そして戦後の「トラウマ」に関心が寄せられているのである。

第二次大戦後に起こったこのような変化はフランス的現象で、世界中どこでもそうだというわけではないようだと著者は断りを入れているが、これは心性の”革命”がフランスから始まるロング・デュレの存在を示しているのかもしれない。

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さて、ここで日出る国の事情にも目を向けてみよう。軍神乃木希典は、仮に21世紀に於いてもナショナル・ヒストリーが幅を利かせていたとすれば、おそらくコラム付きで紹介されていたはずの大人物である。しかしながら、山川出版『日本史用語集』によると、高等学校日本史教科書(B)全8冊の中で将軍の名を掲載しているのは僅かに3冊である。これは石坂洋次郎長谷川町子と同等の扱いであり、松本清張美空ひばり(掲載6冊)の後塵を拝している。もちろん、田中正造北里柴三郎与謝野晶子(掲載全8冊)には敵うべくもない。これは戦争の”勝”敗という出来事を越えて、フランス人と日本人の心性が静かに共鳴していることを意味しているのではなかろうか。

英雄が歴史を作るのではなく、歴史が英雄を作り出す。つまり、我々は過去を描くことによって、実際は現在を描いているのである。人権と平等を信仰し、気晴らしとささやかな快楽を愛しながらも、何より健康を重んじる現代人の歴史観は、我々がニヒリズムの時代へ着実に歩みを進めていることを暗示しているのかもしれない。